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四国八十八ヶ所

 伊 予 札 所 マ ッ プ
伊予札所スナップ写真 

第46番浄瑠璃寺〜第60番横峰寺

位 置 本 尊 由 来 と 印 象
第46番浄瑠璃寺 松山市 薬師如来 本尊は行基が刻む。薬師如来の別名は瑠璃光で寺名はそこからとる。
                       
                             ご詠歌

ごくらくのじょうるりせかいたくらえば
うくるからくはむくいならまし

天然記念物の樹齢1000年のイブキがある。胸周り4.8m高さ20m。納経所の前には封じ石。九横があり。道路に面した階段を上がると右手に釣鐘堂がある。折しも雨降る中、堂屋根を雨よけに水彩画を書いている二人がいた。かなり忠実に描写されていた。境内には仏足石や仏手石それに経塚もあった。

冷え冷えと仏足石に水溜まり 
第47番八坂寺 松山市 阿弥陀如来 伊予守玉興公が創建。文武天皇の勅願により建てられた際、八カ所の坂道を切り開いたので八坂の寺号がつけられた。
 
   ご詠歌

はなをみてうたよむひとはやさかでら
さんぶつじょうのえんとこそきけ

本堂へは朱塗りの小さな橋を渡る。傍に遍路石が建っている。雨が降っていたので足早に階段をあがる。本堂と大師堂の間に地獄極楽の途があり、どちらも通り抜けられる。真裏には、万体仏があり、府県別に名前があった。さらに奥の高台に紀州熊野大権現、十二社権現をまつった権現堂がある。右手奥は市内見下ろす広大な墓地。北500mの菩提寺に四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八塚がある。

秋の雷心の締まる地獄途

第48番西林寺 松山市 十一観世音菩薩 行基菩薩が一宮別当寺として開創後、弘法大師がこの地に止まり、西南の方向の現在地に寺を移して再興された。
    


ご詠歌

みだぶつのせかいをたづねいきたくば
にしのはやしんpてらにめいれよ
本堂右手に太子堂に閻魔堂 ねこが親子でじゃれにくる。左手納経所に通じる庭園がきれいで、錦鯉が泳いでいた。本堂左手にやまももの木とこぼれ萩。遍路道より一段低いのはここだけでという。りっぱな仁王門がある。また、子規の句「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」がある。

秋うらら猫の寝ぶる堂の縁

第49番浄土寺 松山市 釈迦如来 恵明上人が開基し、本尊釈迦如来像は行基菩薩が刻む。浄土の開祖円光大師、二世、三世、の自作の像があったことから三蔵院という。
    


ご詠歌

じうあくのわがみをすてずそのままに
じゃうどのてらへまいりこそすれ

くずれ塀を右手奥に入ると納経所。ブザーをならすと若い僧が出て書いてくれる古い仁王門があり、仁王像の眼が空洞で真っ黒に見えて少し不気味。寄せ棟の本堂で段を登れば、ひさしが無く賽銭箱も格子戸の中。折からの雨に歩き女遍路が来て、また雨の中去っていった。空也上人像は見れなかった。

秋霖を来し黒髪の遍路傘

第50番繁多寺 松山市 薬師如来 寺の開基は行基で孝謙天皇の勅願所。大師が繁多寺と改称。一遍上人もここで修行をした。の地名からか?

  ご詠歌
よろずこそはんたなりともおこたらず
しょうびょうなkれとのぞみいのれよ
4:50着といえば納経の時間まであと少し。でも、閉まっていた。呼び鈴をならしたら、めんどくさそうに出て来て書いた。書けば、すぐぴしゃりと戸を閉めてしまった。これまで周った札所の中で最悪の無愛想な人であった。秋の日が冷たく感じられた。寺名のごとく繁多なのだろうか?
呼鈴の張り紙一つ
そぞろ寒
第51番石手寺 松山市 薬師如来 草創は聖武天皇。行基が開眼し、大師が真言宗に改める。道後湯築城主河野息利の子のから「衛門三郎」再来の小石が出てきた。その後石手寺と呼ぶようになった。
 
ご詠歌

さいほうをよそとはみまじあんやうの
てにまいりてうくるじうらく
湯治客も多く境内には、沢山の人が来ていた。香煙がすぐ傍の三重の塔へもうもうと立ち上っていた。表の入り口には「渡らずの橋」や草もちを売る店があった。買って食べたけどおいしいというわけでなかった。山手には洞窟もあった。
草もちも買はず小走る秋遍路
第52番太山寺 松山市 十一観世音菩薩 用命天皇の頃豊後の長者が高浜沖で遭難した折、十一面観音に助けられ報恩のため一寺を建立。その後行基および大師により七堂伽藍に整う。

 ご詠歌
ふとやまへのぼればあせのいで
けれどのちのよおもえばなにのく
もなし

納経所と金堂とが遠く離れ300mも坂道を歩いた。納経所に若い人と僧が書いていた。若い人の字は、やはり修行がたりないのかあどけない文字があった。
山門に吹かれ骸の秋の蜂

第53番円明寺 松山市 阿弥陀如来 聖武天皇の勅願により和気西山の海岸に創建され、現在地に再興。

ご詠歌
らいこうのみだのひかりのゑんみゃうじ
てりそうかげはよなよなのつき

ナビでも少し迷ったが、道を尋ねた人が和歌山出身の人でずいぶん懐かしがってくれた。境内に所狭しとりっぱな鐘楼があり驚く。少し奥まった所にキリスト禁制の時代のクロス墓があった。
柿紅葉クルスの墓の薄光り

第54番延命寺 松山市 宝冠不動明王 行基が不動明王を刻んで本尊とし、大師が再興。明治以降円明寺から延命寺に改められた。
 
ご詠歌

くもりなきかがみのえんとながむれば
のこさずかげをうつすものかな

山門に入ると本堂まで細長い参道が続く。店にタオルがたくさん売られていて目立った。タオルの産地らしい。境内で高尾山の自然を守る署名をしていた。
山門を出ると小高い所に梵鐘があり、さらに軍人墓が一際高くあった。
秋天や軍人の墓皆高し

第55番南光坊 今治市 大通智勝如来 大三島の大山祇神社の別宮を越智郡日吉郷にうつしたニ十四坊あったうちの一つ
 
ご詠歌

このところみしまにゆめのさめめぬれば
べつぐうとてもおなじすいじゃく

街の中にありながら境内は広々としている。山門にある鐘の撞き方が変わっていた。紐を下に引くとつけるのである。書家の川村氏の筆塚がちょうど三面鏡のように立っていた。また,見たことも無いような豆が生っていた。
筆塚の三面屏風や秋日影

第56番泰山寺 今治市 地蔵菩薩 大師が梅雨のために氾濫した蒼社川の悪霊を払い。延命地蔵十大願の一つ「女人泰山」から寺名をとる。
 
ご詠歌

みなひとのまいりてやがてたいさんじ
らいせのいんどうたのみおきつつ

座敷の両側に仁王が居るという風変わりな寺である。体は真っ赤で目は見開いているのだがどこかやさしい。地蔵車なる30cmぐらいの石車があり、手で回すことによって六道輪廻を断つという。新しい大師堂のガラスが光っていた。
天高く玻璃新しき大師堂

第57番栄福寺 今治市 阿弥陀如来 嵯峨天皇の勅願により大師が開創。大師が瀬戸内海を巡錫し、風波海難の護摩をたいていると阿弥陀如来が現れたという。勝岡八幡ともいい神仏同居している。
 
ご詠歌

このよにはゆみやをまもるやはたなり
らいせはひとをすくふみだぶつ

本堂は改修中で青いビニールシートを被せていた。左側には萩がこぼれ右側には芙蓉が競うかのように咲いていた。
赤とんぼ編隊の影地に落とし

第58番仙遊寺 今治市 千手観世音菩薩 天智天皇の勅に奉じ国守越智守興公が建立。本尊の千手観音は龍女が刻んだといい。その後阿坊仙人という僧が参籠し天雲のごとく姿を消したという。
 
ご詠歌

たちよりてされいのどうにやすみつつろ
くじをとなへきゃうをよむべし

大きな仁王門に先が見えない山道が続いて「これは、大変」と思ってしまう。降りてくるお遍路さんに「よう御参り」と元気づけられる。また、しゃくなげロードといって子供たちの標語があちこちにある。20分ぐらい登ったであろうか、納経所は本堂の中。しんどく登るが道路補修費として400円要る。
秘仏守る扉開けむと秋の風

第59番国分寺 今治市 薬師如来 聖武天皇の勅願により行基が開創。七堂伽藍が備えられた豪壮な国分寺であった。
 
ご詠歌
しゅごのためたててあがむるこくぶんじ
いよいよめぐむやくしなりけり

西安から大師が種を持ち帰ったという「白皮松」があった。西安というのは、唐の長安のことである。長安はローマと並ぶ世界的大都市の一つであった。思いは、私も訪れた長安へと馳せる。
ででむしの殻化石めき秋の風

第60番横峰寺 愛媛県
周桑郡
大日師如来 役の行者が小堂を建てた。その後大師が霊場に定めた。
    


ご詠歌

たてよこにみねややまべにてらたてて
あまねくひとをすくふものかな

駐車場から約8分程下り坂。途中、木々の間から瀬戸内海が見える。本堂の左手には一面のしゃくなげが鐘撞き堂に被さるように植えられている。参詣道には寄付金を書いた石柱がぎっしりと並び特徴ある景観をなしている。左手に青々とした松2本。鐘撞き堂へ続く道には青い前掛けの地蔵と赤い前掛けの地蔵が7体ほどずつ並んでいる。一段下がった所に宿坊や寺務所があった。

声籠もる般若心経九月尽

61番香園寺〜第80番國分寺

第30番善楽寺〜第45番岩屋寺