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位 置 |
由 来 と 印 象 |
| 第21番穴太寺 |
京都府
亀岡市曽我辺町 |
大伴古麿によって705年開創された。本 尊は疫病退散の薬師如来。丹波国郡司宇治宮成が仏師感世に聖観音像をつくらせた。
完成後、その妻妙智が仏師に馬を与えた、 宮成はその礼物が惜しくなり、待ち伏せして矢を射て殺したが、
感世が生きており、観音像の胸に自分の放った矢が突き刺さっていた。宮成は、改心しその観音像を本尊として祀っ
た。 |
ご詠歌
かかるよにうまれあふみのあなうやとおもはでたのめとこえひとこえ |
工事中
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| 第22番総持寺 |
大阪府
茨木市総持寺町 |
平安時代、中納言高房が任地の太宰府に向かう途中、漁師達が一匹の大亀を捕らえていたのを買い取って逃がしてやった。その夜、川
に落ちた息子を嘆いていたが、翌朝、大きな亀の背中に乗って帰ってきた。喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。、数十年後
その香木が流れ着いた時は既に亡くなっていた。中納言になっていた息子政朝は、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れ、亀に乗った千手観音を刻んだという。この仏像を本尊として祀った。 |
 
ご詠歌
みおしなべておいもわかきもそうぢじのほとけのちかいたのまぬはなし |
住宅の切れ目に総持寺があった。黄色い法衣をした坊さんが一心に拝んでいたそれに合わすように読経が聞こえた。お遍路さんが線香を持って拝んでいた。亀が池に所狭しとひなたぼっこ。電車や飛行機の音やかましい街中の寺。
青梅の枝触れあひし墓碑の上
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| 第23番勝尾寺 |
大阪府
箕面市栗生間谷 |
藤原敦房の子、善仲と善算が当地に庵を結び修行したことに始まる。 やがて光仁天皇の皇子、開成皇子が弟子となり、兄弟は般若経の書写を皇子に託し世を去る。開成皇子は書写を完成し、経を納め『弥勒寺』と命名した。
平安時代になって『勝尾寺』と改められた。 |

ご詠歌
おもくともつみにはのりのかちおでらほとけをたのむみこそやすけれ |
工事中 |
第24番中山寺
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兵庫県
宝塚市中山寺 |
聖徳太子の創建による最初の観音霊場。本尊 十一面観世音は、古代インドの王妃シュリーマーラーが、妊娠、出産の苦しみから女性を救うため自らの姿に似せて等身像を彫刻されたといわれてる。また、豊臣秀吉は天下統一の後、世継ぎがないことを嘆き、本尊に祈願したところ、淀君に秀頼を授かった。秀頼は、後、中山寺を再建した。 |
ご詠歌
のをもすぎさとをもゆきてなかやまのてらへまいるはのちのよのため |
工事中 |
| 第25番清水寺 |
兵庫県
加東郡社町 |
インドから渡来した伝説的な僧、法道仙人がこの地で鎮護国家豊作を祈願し たのが始まりで、推古天皇35年(
627年)に勅願により、根本中堂を建立したと 伝えられており、これが、清水寺の創始とされている。
この地はもともと水に乏しかったが、仙人は水神に祈りを捧げたところ、霊
泉が湧き出したという。清水寺の名はこれに由来しているといわれている。 明治末及び大正2年(1913年)の火災で全山焼失したことにより、現存の建物の
殆どは大正から昭和にかけて再建されたもののようである。 |

ご詠歌
あはれみや普き門の品じなになにをかなみのここに清水 |
写真を撮るだけだった。もう閉門だった。また次回。 |
| 第26番一乗寺 |
兵庫県
加西市坂本町 |
法華山一乗寺は孝徳天皇の勅願によって、法道仙人が開いたと伝えられる。仙人は印度天竺から渡来した人物で、飛行自在で紫雲に乗り中国朝鮮を経てって日本に来たところ、播磨の山中に八葉蓮華によく似た霊峰を見つけたので、鉄鉢と仏舎利を安置したという。 大化五年(649)、孝徳天皇は病気から仙人を宮中に招いて病気平癒の祈願をさせると、たちまちに治った。後、法華山に行幸し、一乗寺の勅額を与え仙人伝来の観音像を安置して永く鎮護国家の道場とした。
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ご詠歌
はるははななつはたちばなあきはきくいつもたえなるのりのはなやま |
朝早く出過ぎたので駐車場で待った。山深く来たようでまるで人気がなかった。そのうち1台2台と来たので一緒に車を降りて階段を登っていった。左手に重層な国宝の三重の塔がある。本堂ともいかにも歴史があるといった古めかしい建物であった。こじんまりであるが、舞台づくりで基礎から大きな丸太でがっしりと組まれている。
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第27番圓教寺
(書写山) |
兵庫県
姫路市書写 |
開山の性空上人は橘善根の子で、二十六歳で元服したが、出家の願望が強く三十六歳で僧となり、康保三年(966)五十七歳で書写山に入った。
性空は花山法皇に同行して、西国巡礼の中興を成し遂げている。 |
ご詠歌
はるばるとのぼればしょしゃのやまおろしまつのひびきもみのりなるらん |
工事中 |
第28番成相寺
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京都府
宮津市成相寺 |
聖真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、天橋立の美しさに感じて草庵を結び、『法華経』を読む日々を送った。慶雲元年
( 704年)のある日、不思議な老人が現れ観世音菩薩像を授けたのがが寺の創始とされている。
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ご詠歌
なみのおとまつのひびきもなりあいのかぜふきわたすあまのはしだて |
本堂までの途中、撞かずの鐘がある。有名な話らしく、ちゃんと立て札もありボタンを押すと案内のスピーカが説明してくれる。本尊は聖観音菩薩。右手に納経所があり、その真上には左甚五郎作の「真向きの龍」がある。その龍の彫刻は大きくて見事であった。
作務僧の黙して掃ける朴落葉
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| 第29番松尾寺 |
京都府
舞鶴市松尾 |
唐から渡来した威光上人が諸国を巡っているうち、若狭富士とよばれる青葉山の美しい双峰を見て、祖国の馬耳山を思い浮かべ、ここが霊山だと感じた。威光は、青葉山中の松の大木の下で修行中に馬頭観音像を
感得し、慶雲5年(708年)にこの松の木の下に草庵を造り、観音像を安置したのが
松尾寺の創始とされている。 |

ご詠歌
はそのかみはいくよへぬらんたよりをばちとせもここにまつのをのてら |
本堂の屋根が二重に重なるような造りになっていた。一見、少し近代的な感じもした。唐破風で見事な透かし彫りがあり、本尊の馬頭観音菩薩が奥に鎮座しているが本堂の奥まった所で黒っぽくあるのがよく見えない。本堂左手には馬の像があった。しっぽが哀れにも針金で釣ってあった。
銀杏散る鋼露わに馬の像
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第30番宝厳寺
(竹生島) |
滋賀県
東浅井郡びわ町 |
役行者がこの島に渡り、岩窟で修行していた時、弁財天を感得。その後、行基が聖武天皇の勅願により入島し開山した。諸堂の多くは、豊臣秀頼によって、伏見城から移築されたものと伝えられる。また。竹生島の弁財天は、日本三弁天の一つに数えられている。 |
 
ご詠歌
つきもひもなみまにうかぶちくぶじまふねにたからをつむここちして |
今津港からクルーザで約20分、長浜港からも着ている。降り立ったところに琵琶湖周航の歌碑がある。本堂までは、180段の祈りの階段。西国第30番札所の本尊弁財天が納められている。明治元年「神仏分離」で廃寺になりかけたが、人々の強い要望もあって、かろうじて免れたという。帰りの船を1つ遅らせてゆっくり周った。
最終の船発つ放送大西日
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| 第31番長命寺 |
滋賀県
近江八幡市長命寺町 |
景行天皇の頃、武内宿禰が一本の大木に「長命長遠所願成就」という八文字を刻んで、長寿を祈願した。後にこの地を訪れた聖徳太子が観音の種字と、武内宿禰が刻んだ文字をみつける。さらに白髪の老人が現れて、柳の霊木で三体の観音像を刻むように告げて立ち去った。そこで、太子が十一面観音、千手観音、聖観音を造像。三体を本尊として、伽藍を建立したのが始まりである。 |
 
ご詠歌
つやちとせややばぎにながきいのちでらはこぶあゆみのかざしなるらん |
今は頂上近くまで車で登るので楽だが、西日本随一といわれる808段の階段を歩くとなると大変。それでも100段ぐらい残して駐車場がある。階段のど真ん中に聖徳太子礼拝石がある。長命寺は聖徳太子が名付け親。突然、照雨が降りだした。いそいで100段の階段をかけのぼる。やがて深みのある紅色の三重塔が見えほっとなごむ。続いて本堂があり大きな提灯が吊られていた。
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| 第32番観音正寺 |
滋賀県
蒲生郡安土町 |
聖徳太子が琵琶湖のほとりで人魚に呼び止められた。人魚は『私は堅田の漁師で、殺生を重ねてきたので、こんな姿にされてしまい、魚たちに血を吸われ苦しめられています。どうか成仏させて下さい』といって頼んだという。太子はこの願いを聞き入れ、千手観音像を刻み、堂を建立し、観音像を祀って供養した。
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ご詠歌
つあなとうとみちびきたまえかんのんじとおきくによりはこぶあゆみを |
麓からだとなんと長命寺の808段をはるかに凌ぐ1300段あるという。まさに西国札所随一の難所である。本堂は、これまた改修中で水色のシートが全体にかぶさっていた。平成5年に焼失したらしい。新本堂には、焼失した秘仏の代わりに、インド政府の協力による総白檀仕上げの丈六の千手観音座像がまつられると書かれていた。それで仮本堂で納経をしてもらった。境内には、唐様破風の建築があり、弁財天の池を小粋にこしらえていた
鳴き急ぐ一と日幾年法師蝉
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| 第33番華厳寺 |
岐阜県
揖斐郡谷汲村 |
奥州会津の住人であった大口大領が京都で彫らせた十一面観音像を持って帰る途中、この地で重
くなり動けなくなった。そのため、ここを結縁の地と考え、すでに修行していた豊然上人とともに一寺を建立して、観音像を祀った。こ
れが華厳寺の創始と伝えられている。堂を建てるとき、山中から油が湧き、これを灯明に用いたという言い伝えもあり、谷汲の地名はこれに由来してるという。 |
 
ご詠歌
ついままではおやとたのみしおいづるをぬぎておさむるみののたにぐみ |
この寺へは、何度か行った。グループで行った時は横倉寺や大垣の奥の細道結びの地へも立ち寄った。さて、この寺の印象は、駐車場からの参道に土産物店がびっしりと並んでいて、その1つでアツい田楽を食べたこと。門に入ってから、石灯籠や白い幟が参道の両側ではためいていたことである。でも、精進落としの鯉や賽の河原、満願堂に笈摺堂といった見るべき物を見ていなかったことが惜しい。
朝霧の一団過ぐる峡の寺
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