|
位 置 |
由 来 と 印 象 |
| 第11番上醍醐寺 |
京都市伏見区醍醐 |
理源大師が霊示により醍醐山上に泉を得て、その湧き水を飲んで一言「ああ、醍醐味なるかな」と言ったことが「醍醐寺」の由来と伝えられる。 |

ご詠歌
ぎゃくえんももらさで救うがんなればじゅんていどうはたのもしきかな |
秀吉の最後の年となった「醍醐の花見」は下醍醐の五重塔の広場にある。名物の餅上げの台もひっそりとあった。ここから上醍醐まで心してかからないとどっと疲れる。私は、往復2時間かかった。それでも本堂のほか回れなかった。「銘水醍醐の水」を忘れずに飲みましょう。私は、飲まず、食わず行ったので4杯くらい飲んだ。
|
第12番正法寺
(岩間寺) |
大津市石山内畑町 |
泰澄法師は、元正天皇の勅命によって霊地を求めていた。岩間山の桂の大樹より不思議にも千手観音があらわれた。泰澄法師はこの奇瑞に感じ、みずから千手観音・吉祥天・婆蘇仙の尊像を刻んで安置し、一寺を建てたの寺の始まりという。 |
 
ご詠歌
みなかみはいづくなるらんいわまでらきしうつなみはまつかぜのおと |
京滋バイパスの石山ICから県道106号を南に下る。山道に入って4キロ、山深く感じる。本尊・千手観音には「雷除け観音」、「汗かき観音」なる異名がある。岩間寺に篭ったとき、芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」と読んだとされる小さな池がある。蓮の鉢に小さく黄色い花が咲いていたのが印象的だった。
霧を出て人無き村を通りけり
|
| 第13番石山寺 |
大津市石山寺 |
聖武天皇の勅命により東大寺の建立にあたっていた良弁(ろうべん)僧正が、琵琶湖周辺の山々から切り出された建立用材の集積地として石山院と言う役所を設けたのが始まりと言われている。 |
 
ご詠歌
のちのよをねがうこころはかろくともほとけのちかいおもきいしやま |
石山の秋月は近江八景の一つで珪灰石の奇岩は天然記念物になっている。また昔から石山詣は、源氏物語をはじめ「枕草子」・「更科日記」・「和泉式部日記」など数々の古典文学に登場する。寺域は広く見切れない。
白き巖白き根を抱き冬に入る |
第14番園城寺
(三井寺) |
大津市園城寺町 |
天智・天武・持統の三帝が誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と呼ばれていたところから三井寺と呼ばれるようになったといわれている。 |
 ご詠歌
いでいるやなみまのつきをみいでらのかねのひびきにあくるみずうみ |
長い階段を登り切ると視界が開け観音堂の境内に出た。そこからは、大津市街が見えていた。どうやら商店街から来る上り口の方が賑やかだったようです。納経をすましそこから見える街の様子を休憩がてらに見ていた。降り口には、百体観音堂があり、本尊と同じ如意輪観音像や他の観音様がいっぱい祭ってあった。それから今来た道を引き返し金堂まで来ると右手には近江八景の1つ「三井の晩鐘」があった。でも中は暗くよく見えなかった。
秋思ふと老僧の笑み遠くあり
|
| 第15番観音寺 |
京都市東山区泉涌寺 |
825年頃(平安時代)嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開創したと伝えられている。今熊野と呼ばれるようになったのは後白河法皇が熊野権現をこの地に勧請され、観音寺の山号を新那智山としたことからはじまる。 |
 ご詠歌
むかしよりったつともしらぬいまくまのほとけのちかいあらたなりけり |
泉涌寺途中の道を左に折れると朱塗りの小さな鳥居橋があり、渡るとすぐ駐車場がある。なだらかな階段をあがると子まもり大師の像があり、四国八十八カ所巡りのお砂踏みがある。さらに階段を上がると本堂に出る。中腹には薄紅葉した山を借景に朱塗りの宝塔が見える。この辺りは、今熊観音をはじめ皇室関係の泉涌寺、通関橋を持つ東福寺など紅葉狩で有名な寺が並んでいる。
蝉時雨磴どこまでも札所寺
|
| 第16番清水寺 |
京都市東山区清水 |
延鎮上人が音羽山麓の滝のほとりに草庵をむすび、永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのがおこりで、山中より湧出する清泉は延命水で寺の由来になった。 |
 ご詠歌
まつかぜやおとわのたきのきよみずをむすぶこころはすずしかるらん |
京都でも一番人が集まる所だと思う。駐車場はずいぶん離れ、仁王門までびっしりとお店が並んでいる。本堂は国宝、釘1本たりとも使っていない見事な舞台づくり。本堂の秘仏は平成13年に、奥の院は平成15年に秘仏開帳となった。その下に3霊水の滝があり、長寿、金運、勉学とあって、競ってその水を飲んでいる。仁王門、鐘楼、三重の塔どの建物も重要文化財である。もっとも清水寺は世界遺産に登録されている寺である。
蝉の眼の透明のまま死に給ふ
|
| 第17番六波羅蜜寺 |
京都市東山区松原通 |
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子空也上人により開創された。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、市中に出ては歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて病魔を鎮めたという。いわゆる踊り念仏と辻説法である。 |

ご詠歌
おもくともいつつのつみはよもあらじろくはらどうへまいるみなれば |
駐車場がなく遠く離れた所にコイン駐車場があった。周りが建て込んでおり、本堂の門を撮すのにもこれ以上下がれない道だ。本堂に入ると、若いお坊さんが出てきて辻説法ならぬ寄付説法をしてくれた。宝物館にある空也像は、教科書等によく掲載されている。本堂横には、平清盛塚があるが、平氏滅亡までに一族が関わったと見られる。
|
第18番頂法寺
(六角堂) |
京都市中京区六角通 |
聖徳太子が用明天皇2年(587年)に四天王寺建立の用材を求め、この地を訪れたとき、泉を見つけ水浴したと伝えられている。その夜、夢のお告げがあり、護持仏の観音がここに留まることを望むというので、六角形の堂を建て観音を安置したのが寺の創始とされている。
|
 
ご詠歌
わがおもうこころのうちはむつのかどただまろかれといのるなりけり |
隣の地下の駐車場に置いたが、ここも町中で大変。なぜか鳩がいっぱいで境内にも本堂前にある大きなイブキまでとまっている。本堂が六角になっているのは上から見ないとわからないが、後ろのおたべ会館のエレベータに上るとわかる。隣は池坊専永の建物。小野妹子がこのお寺で朝夕ご本尊に花を供えたことが、華道の起こりと言われている。本堂東側に太子堂があり、小さな庭池の上に作っている。
|
| 第19番行願寺 |
京都市中京区寺町通 |
革堂行願寺の開祖行円上人は人を助け仏道を説いてまわり、密教行者の宝冠をかぶり、いつも革の衣をまとっていたところから「革聖(かわひじり)」と呼ばれた。
行願寺の名は、行円上人が1004年(寛永元)年にいっさいの人々の成仏を「ねがい、行(ぎょう)じる」という思いで「行願寺(ぎょうがんじ)」と名づけてた。 |
 
ご詠歌
はなをみていまはのぞみもこうどうのにわのちぐさもさかりなるらん |
京都市のど真ん中、この辺はそもそも車で行くというのが間違いであるが、いくつか回るには致し方ない。正門は、車の幅いっぱい。境内に入っては、車はおよそ場違いと思われるぐらい狭い。寺の塀越しにビルがあり、排気扇が並んでいる。かろうじて朴の木や楓、キンモクセイなどの木が自然の色や空気を取り戻すかのように寺を護っている感じ。幾たびも場所が変わってきたといえ、由来を示すような代物は何もない。おそらく33カ所中一番、?となる寺かも知れない。 |
| 第20番善峰寺 |
京都市西京区大原野 |
長元2年(1029年)、恵心僧都源信の高弟源算上人がこの山に登り阿智阪明神の化身である老翁に出会って、その地を譲り受け、寺を建立したのが始まり。現在の諸堂は徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたものである。
|
 
ご詠歌
のをもすぎやまじにむかうあめのそらよしみねよりもはるるゆうだち |
京都市街を一望にでき、静かで落ち着いた紅葉の名所。近くには浄土宗本山光明寺がある。しかし、最近では、宇治バイパスもつながりインタチェンジも新設するようで街も様変わりしてきた。境内には、天然記念物の松があり二方向に龍のように伸びるさまは、度肝を抜かれる。また、余裕ある建物の配置は、後山の紅葉を借景にして心和む景観を呈している。 |