はじめに
<聖地巡礼>や<西蔵>、<黄河源流を行く>旅などは、探検に 近いこともあって誰もが気軽に出かけられるという旅ではない。気 候風上の条件や体力的な限界もあって、近頃は『勧めず勧められ ず』を大切にご一緒することにしている。見せて上げたい物はいっ ぱいあるのだが、年齢的に長旅が無理な仲間もふえてきている。 そんな中で「いっぺんゴビ砂漠を行く旅に連れて行って欲しい」と
いう声が生まれた。天山南路や天山北路、西域南道を駆ける旅は 前後三回に亙って実施してきたので、私自身は<伊寧><喀什> <和田>というオアシス都市は熟知している。その上遠隔地のた めにかなり日程が長びくこともあって、一九九三年の<庫車>の石 窟巡礼にも、ごく少数の人しか同伴しなかったわけで、<河西回廊 >以西の地に意欲をもやす人々の声にも応えたいと思って、今次 の旅を計画してみた。
<莫高窟>に<西千仏洞>と<楡林窟>の 二窟を付け加えたのは、その人々のためと言うよりは寧ろ私自身 のためといってよい。本年四月に新しく楡林窟>が公開されるようになったという情報が
| 桂 泉 書 |
月 の 陰 加 代 子 |
月 の 砂 漠 わ が 佇 ち て 生 む |
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入ったために、このチャンスをのがしては再び訪ねるのは不可能と判断してのことだった。初めて参加してくださった井上誠子さんや嶋倉さんを除いては、そう若いとは言えない仲間たちの旅ではあったが、それだけに用心して楽しく未知の地を行く旅が続いた。羊の放牧や山羊の放牧風景には馴れていたが、駱駝の放牧は初めてのことで、子供のように声をあげる一齣もあった。私たち一行のみの<西千仏洞>や<楡林窟>は、往古のままに鎮まり返っていて、遺跡というよりは古代がそこに在り、私たちも古代人として其処に在るような錯覚に陥るのだった。一行はひととき科学や文化の雑踏の波を離れて、悠々自適の刻の流れに身を任せていたような気がする。旅の初めに体調を崩し自分自身も不安を隠し切れぬ日が続き、御心配をおかけした事をお詫び申し上げ、御協力に感謝申し上げます。
再びの<敦煌空港>は、いくらか空港施設が新設されたかに見えたが、一九八五年秋に降り立 った当時とさして変わりはなく、相変わらず砂漠の果へ伸びる一本の滑走路が印象的であった、 耳の痛くなるソ連製の飛行機の修理を待って、不安な気持ちを抱いたまま<酒泉>を離陸し、や っとのことで<敦煌>入りしたかつての日、<蘭州>で一日半の口スタイムを費やしたこともあっ て、機が完全に着陸したとたん、乗客達からの一斉の拍手に緊張していた空気がいっぺんに緩 んだのを思い出す、飛行機そのものも又中国の交通事情もうんと良くなってきたけれど、矢張り <敦煌>は遠く辺境の町という印象はぬぐいきれない。<敦煌>の敦はけ大きな”煌”は"盛ん "の意味をもち、紀元前、前漢武帝が河西回廊から匈奴を駆逐し、河西回廊の一つ敦煌郡を置 き東部から漢民族を移住させて、シルクロードの軍事的拠点にしたことから、歴史上に登場する <敦煌>は印度から仏教が中原へ伝わり始めた頃、中原の玄関口として、仏教と共に入ってき たり”石窟芸術”によって、<莫高窟>が開かれ仏教文化がこの町に集約し、”聖地”としてまた 敦煌市のシンボル飛天 "仏教都市"として『大きく盛んな都市』に育っていく。
他の<武威・張掖・酒泉>の三郡と異なるところである, 中国人で初めてシルクロードに足を踏み人れたのは、漢武帝に遣わされた張騫で、彼の報告によって漢代にこのロードを通じての交易が進み、オアシスは隊商市場として栄え、やがて物品だけでなく、異国の風俗や宗教、美術や言語などさまざまな文化をもたらしたわけである 。唐代になると、玄奘三蔵が仏教の教典を印度に求めてこの地を旅し、おびただしい数の教典を中国に持ち帰った。日本の留学生や留学僧によって、西方の文化が日本に伝えられたのもこの頃のことである。現代の<敦煌>は清代につくられた町である。
西千仏洞 <西千仏洞>を目指してバスは市内を走りぬけ、ゴビの一本道を走り続ける。<敦煌>は"沙州"と
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呼ばれた時代があり、郊外はずっと遥かな涯までゴビと砂漠である。さわやかな風の吹くかつての<敦煌県>は、今<敦煌市>として格上げされ、街の様子もずいぶん変わっている。町の中に畑があったり街路樹のボプラの続く道路は昔のままであるが、棉花を積んだ驢馬ぐるまや騾馬ぐるまが見えなくなって、代わりに運搬用のテーラーやトラクター、四輪車が町の中を往来している。あの懐かしの運搬風景が見られなくなったことに先ず驚く。うんと田舎の農村に行っても、便利で効率のよい動力車に押されて、もうあののどかな風景は見られないかも知れない。
<敦煌城>が左手前方に見えはじめる。日中合作の映画『敦煌』。その実物大の城や城壁・町並を復元した広大なセットである。任地に戻って意欲的な王さんは、セットと反対側の地平近くに蜃気楼の湖水のような物が見えるとみんなに説明されるが、その正体の捉えられない一行は、不審そうな顔つきで相変わらず遠方を見つめ続けている。何回もの旅の中で、”蜃気楼”に対するこの種の反応を、私は度々経験してきた。ゆらゆらと水のように漂う水かげろうや、逃水にも似て捉えどころのない現象を、何とかはっきり捉えたいというみんなの欲求不満げな顔つきー。河西回廊以西のゴビでよく見かけた表情であった。
いよいよ<西千仏洞>着。市内より四五粁、こんなところにどうしてこんな崖があるのだろうと、奇異を感じる程の瓦礫の崖が続いていて、域内はかなり広く緑の樹木も豊かである。勿論、私達一行の他に見学者はいない。
<敦煌石窟>は<莫高窟>と南郊外の<西千仏洞>、そして<安西県>にある<楡林窟>の三ヶ所に分けられる。この千仏洞は一九九七年四月に<楡林窟>と共に公開されるようになったとのこと。北朝末期から惰、唐、五代、末、西夏に亙って、<党河>の断崖に築かれ、現存するのは十九の窟で壁画や塑像は<莫高窟>と同じ系統であるという。大きな緑蔭を広げる石窟の道は、何とも心がやすらぎみんなの顔は水を吸った植物のように生き生きしている。
人の訪れない石窟内部は、莫高窟の壁画や塑像と異なり、手を加えられていないこともあって素朴で、刻の停滞した往古の空間がその儘其処にあった。莫高窟も公開以前は恐らくこの窟内の趣きに近かったのではなかろうか。カメラを使えないのが残念であった。三、五、七、八、十の五窟を開扉してもらって見学する。俄の開扉に秋光を浴びた仏像や飛天たち、或は千仏や供養者像もきっと明るい光りに戸惑ったことであろう。そんな表情を思わせる<西千仏洞>の石窟であった。
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二千年前の漢代の敦煌も唐代の敦煌も、現在の敦煌の町から三粁隔たった西南部に、すっかり埋まって眠っている,井上靖の小説『敦煌』」に登場する(敦煌・涼州・甘州・粛州・瓜州)といった町々も同じことで、今の<敦煌・武威・張掖・酒泉・安西>の町々ではない。はっきりと昔と変わっていないと言えるのは、ゴビ灘や砂漠に取り巻かれた町であることと、もう一つ変わらぬもの、それはこの町から二十五粁離れた砂漠の中のオアシスに匿されている<莫高窟>である。<莫高窟>はおそらく千年前とも干三百年前ともさして変わることなく、現在に遺っているのではあるまいか。往古の町も住んでいた多くの民族も、みなその時期、時期の歴史の波と共に姿を消している。複雑な血をもった人々の子孫は居るかも知れないが、それとても血は薄らいで跡形もなくなっているのではないか,歳月というもの、歴史というものは想像もつかない怖ろしい方をもっている。 莫高窟>を変わらせないもの―、 敦 煌 城 一つはそこが宗教的霊地であり信仰の場所であったこと。二つには異常な乾燥度をもった砂漠の中に蔵われてあったこと。そして、もう一つのはこの地の住民に、愛情を持って護られていたことに因ると、井上靖先生は言う。
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莫 高 窟 バスは十三年前とはすっかり様相を変えた駐車場に到着。何もかも様変わりした<莫高窟>である。大泉河にかかる大橋はずいぶん立派なものとなっているが、河には一滴の水もなく涸河の状態。ポプラ、楡、楊、白楊、胡桃・林檎などの木々はあの日の侭であるが、敦煌文物研究所の建物や所員の家は、垢ぬけのした博物館のような感じ。変わらぬものと言えば、郭沫若の筆になる<莫高窟ー石室宝蔵>の扁額を掲げた牌楼ぐらいのものであろうか。人々が奔流のように<莫高窟>を目指してなだれ込んで来たこの十三年間の一大変貌ぶりは、この千仏洞が脚光を浴びる以前の何百年間分にも匹敵するものであろうと思
われた。
今回の石窟案内は孫暁麗さん、彼女の父親は矢張り文物研究所の所員である。三時間の間に十三の窟を巡る。前回の、二十の窟を合わせて私は四九一,窟の中の三三の窟を見せて貰ったわけだ。許可される窟は補修の状況や中国側の事情によって変わり、二三七窟と三四五窟は初めての見学であった。かつての日、広場でガラス枠のような物を造っているのを見て、やがて壁画や塑像の近くまで行って見学できなくなることを予測していたが、それが実現整備されていて、<莫高窟>もだんだん見学しづらくなるのを感じた。今次の見学では希っていた<四五窟>が見られなかったのは痛恨事だった。十三年前、私は四五窟の限りなく美しい菩薩像と仏弟子の阿難と迦葉、そして邪鬼を踏まえた天王像や七尊像に声にならない声をあげた。軽く腰をひねり白い肌にくっきりと整った面差し、半裸体の上半身の胸と腕を飾った瓔珞、流れるようにまとった裳のなまめき。それは湖北の<渡岸寺>の十二面観音に勝るとも劣らぬ、唐代莫高窟芸術の白眉とも思われる菩薩であった。いつか機会があれば、もう一度見えたい像の一つであったから同行の人々にも是非と考えていたのであるが、返す返すも残念なことであった。
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| 莫高窟1 | 莫高窟2 | 莫高窟3 |
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| 北大仏殿 | 壁画 | 牌楼 |
鳴沙山千仏洞
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窟から窟へ 館外に出ては簡単にメモを取る。よく判らないメモをたよりにまとめた窟の印象記ー(殆どメモの侭)
・<十六窟・十七窟>。前室を入ったら甬道。その中程に<十七窟>がある。小さな空洞は<宝蔵経洞>の入口で人々がいっぱい。壁画は左に杖をもった侍女、右は扇をもった比丘。そして洪鞏の像,<三二九窟>。(唐代)格天井の中央に四体の飛天と、 <三二九窟>にびっしり隙間なく千仏。四方の壁画は経その周囲一面にわかり易く絵で解いた「浄土変相図」。北壁文の内容を菩薩、上部に極楽浄土、下部に現世が描かれは真ん中に菩薩た「西方浄土変」。剥がされた部分二ケ所。
・<三二八窟> (唐代)等身大の釈迦、迦葉、阿難と三菩薩。この窟の菩薩は唐三彩の美人俑よりも、細面でスマートな感じ。
・<四二七窟>(隋)大きい窟。正面の方柱と左と右の壁面に仏三尊立像。五米の高さの像は迫力がある。
・<四二八窟>。(北周)東壁は壁面を二段に分けて描いた壁画『サッタ太子本生図』いわゆる『本生譚』である。
初見のこの前で足が止まった。中の段には捨身飼虎」の図。南壁は「説法図」。この壁画は飛天もその他の像も、みんな太い黒い線で縁どられ、目と鼻が白く太く異様な感じ。
・<一三O窟>(唐)三層にわたっての大洞窟。南大仏と呼ばれている。二六米の堂々たる倚座の弥勒大仏。
・<一五八窟> (中唐)南大仏・北大仏についで大きい涅槃蔵像(長さ十六米)。頭は南に向き顔は東に向く。死を嘆き悲しむ人々の異様な表情ー。
・<九六窟>(唐)北大仏殿。十米八層の楼閣は莫高窟のシンボル。高さ三三米の巨像で発願者は則天武后。
・<二五七・二三七・一三0・三四五>窟については、孫さんの説明をうまくメモすることが出来ず、窟から窟へ流れるように巡ったに終わっている。 <四五窟>の脇侍菩薩と<六一窟>の五台山図は、もう一回ぜひと考えていたが残念ながら・・・。
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| 南大仏 | 鳳凰の壁刻 | 龍の壁刻 |
十三夜の鳴沙山![]() |
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<鳴沙山月牙泉>,かつて、祁連山脈からの雪解氷が転がるように流れる灌漑用水路と、その付近に土壁づくりの粗末な農家。雨が少ないとのことで屋根やべランダは、ポプラの枝や唐黍の殻で葺かれた、素朴な農家がポツンポツンと見かけられた。それがどうだろう、この変わりようは―。
驚くばかりに幅の広い道、しかも舗装された道路が<鳴沙山>までずっと続き、道路脇には近代的に様変わりした、同じ型の農村住宅が並んでいる。バスが着いて又々おどろきの声、<鳴沙山月牙泉風景名勝区>という一つの観光村ができているのだ。
中央の道路を挟んで両側に売店の建物がずっと続く。一連の建物を、一マスずつ業者に貸す仕組になっている。整備された門前通りを五、六十米進むと立派な牌楼に達し、そこから内側には事務所風の建物と駱駝を斡旋する人々。
目の前には夕光に輝く幻想的な砂丘の起伏が続き、その裾を駱駝にのった隊列が進んでゆく。私たち一行も三日月型の泉<月牙泉>を目指して駱駝の背の人となる。熱気球を楽しむ人、砂丘滑りをする若者たち、空中に浮かぶパラグライダーのとりどりの色、十九時を過ぎても相変わらず人出に賑わう十三夜の鳴沙山である。
<月牙泉>周辺もうんと整備されて、対岸には寺院が建っている。人の去った<月牙泉>の寺院で撞く鐘の音を静かに聴いてみたい思いに駆られた。
十三夜の月の砂漠を駱駝の背に揺られた日のことは、一行の胸に鮮やかにのこることであろうと思われた。
楡 林 石 窟(東千仏洞)
ゴビを貫く一条の道"安敦公路"をバスは砂塵をまき上げて走る<安西>までは約百二十粁、<楡林窟>は町分ら南へ七0粁の位置にあり約二時間の行程だという。王さんは周辺の光景について詳しく説明してくださる。
完全に近い形で遺っている烽火台や・蜃気楼(幻の湖、中国では"海市蜃楼"とか”麦気""逃水"という)の話などが続く。アルカリの白い粉の吹き出たゴビ、平坦ではない凹凸のさまざまな起伏のゴビが続く。
この辺りは世界一風の強い土地で、風蝕によって造られた硬い粘土の波立っているゴビだと王さんは言い、<ヤルダン地帯>と井上先生は記している。
往古の『「西域紀行』には"龍堆"という名でロプ湖周辺の様相を説明する時使われているが、<敦煌>周辺にこのような地帯があることを知っていたら、小説『敦煌』の戦闘描写は多少異なったものになっていた筈であるとも記されている。
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楡林窟1 |
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楡林窟2 |
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楡林窟3 |
楡林窟4 |
ヤルダン地帯 |
初公開”楡林窟”の仏たち(万仏峡)
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