普陀山へ つじ 加代子(記)
ホバ―クラフトで約二時間で〈普陀山〉に着く。船内は韓国からの巡拝客で満員である。僧も比丘尼もみんなグレ―の法衣をつけ、団参の記章をつけている。一般の巡拝者といえば私たちぐらいのようである。
〈普陀山島〉は浙江省北東部、東中国海に浮かぶ舟山群島の一小島で、五台山(文殊菩薩)、峨眉山(普賢菩薩)、九華山(地蔵菩薩)と並んで、中国四大仏教聖地のひとつに数えられる。その起源には、二説がある。一つは約千年前、南海観世音が普陀山の隣りの小島、〈落伽山〉で仏教を広めたことによるというもの、他の説は、五代の梁貞明(十世紀)の頃、日本の僧、慧鍔が山西省五台山で観音像を拝領し、帰路船が岩礁にのり上げてしまったが、日本でなくとも船の着いた所に寺を建てて祀ろうと祈ったところ、船が岩礁から離れ〈普陀山〉に辿りついた。その地に『不肯去(行こうとしない)庵』を建て、それが今の〈普済寺〉になったという。
島は東西三、五キロ、南北八、七キロ、面積十三平方キ口の小島であるが、最盛期には寺廟が三百あまり、三千人の僧尼がいたとのことである。ホバ―クラフトは島の南端の、立派な海岸牌坊のたつ埠頭に着き、下船客は歩く者、バスをつかう者とそれぞれ散っていく。この辺りには漁民の経営する民宿が多く、安くてサ―ビスのよいのが喜ばれているそうだ。かつての霊場〈普陀山〉は、今や夏のリゾ―ト地で東中国海に面した都市から、海水浴客や避暑客が押し寄せ、遊覧の地として賑わうという。この島のガイドの陳さんは「料金もうんと安く、海鮮料理を食べに来るだけでも普陀山に来た意味があります」と言って笑うのだった。島全体に二0あまりの名所が点在しているこの島、たった一泊ではずいぶんと心許ない気がするが―。
この島を巡るには、寺から寺へと廻るバスを使うか自分の足を使うより方法はない。いつもの様な貸し切りバスというわけにはいかない。
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普陀山埠頭 |
化石「紫竹石」 |
潮音洞 |
午前中に〈紫竹林・潮上音洞・不肯去観音院〉を訪ねる。
〈紫竹林・潮音洞〉は〈不肯去観音院〉と同じ敷地内にある。〈紫竹林〉への道の両側には松の木が多く、温暖な気候ということもあって雑木の緑が殊に美しい。詣で道には磚が敷きつめられ、側壁は切り石で固められている。どの石の表面にも緑色のしだの絵模様があるので、ふと歯朶の化石ではないかと思い、陳さんに確かめてみるとやっぱり『化石』ということだった。年代は浅いらしいがこんなに沢山の化石の無造作な造型に私はびつくりしていた。紀南で見つかった化石は、どれもこんなに色は着いていなかったから、驚き百倍の私だった。時折頭陀袋を斜めにした中国の参詣者のグル―プに出会う。境内はよく整美されてまるで自然公園の中を行くようである。
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補恒紫竹林 |
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崖仏 |
やがて正面に『補恒紫竹林』の扁額を掲げたお堂、堂内には達磨大師と観音菩薩像が祀られている。宿坊は紫竹林中というらしい。観音みちは紫竹林の前から海へ向かって伸び、潮のかおりと共に真っ茶色の海。はるかには舟山群島の小島が霞の中にぽつん、ぽつんと浮かんでいる。岩陰から人々の笑い声が立ち和やかな観音霊場が展ける。岩肌に刻み込まれたみ仏、岩間にはぎっしりと黄や赤の線香が詰め込まれ、人々の祷りの姿がまざまざと推察される.海に面した祷りの庭には、善男善女というに足る人々の姿が大勢見られた。
それにしても、どうしてこの海はこんなに泥土色をしているのか、まるで黄河の様相ではないかと、奇異を感じ続けてわからずじまいの私であった。岩に耳をくっつけたり、跼みみこんで耳を傾けているのは、潮鳴りを聴いているのだと言う。〈潮音洞〉という小さな標石、複雑な岩礁の狭間に渦まく潮、静かにしていると巨体の動物が呻き声を出しているようにも聞こえる。日がな岸壁に寄せては返す泥色の潮波に、ふとこの海は日本に繋がっているんだの思いが湧く。
そう、空海が入唐のとき上陸したのは福建北部の〈赤岸鎮〉であったが、最澄の乗った遣唐第二船は、〈明州〉この寧波に九月に上陸し翌年の六月、藤原葛野麻呂に同行して同じ〈明州〉から帰国の途についている。入唐、二年の後空海もまた、〈越州〉万寿尼院の老尼から確かな報として届いた『諒闇』のことを胸に、橘逸勢、高階真人大使の一行と共に、八月下旬に〈明州〉を発っている。いずれもこの舟山〈翁州〉の小島を遠望しながら筑紫を目ざしたのであろう。
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不肯去観音院
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〈不肯去観音院〉。泥いろをした海を一望にする小さな観音院で潮鳴りすら聞こえてくる。後梁の貞明二年(九一六年)、日本の僧慧鍔が山西省五台山で観音像を拝領し、帰路船が暴風雨のため遭難し普陀山島に漂着。菩薩がこれ以上東に行くのを拒んでいるのだとし、竹林の中に草堂を建て観音様を祀ったところから〈観世音菩薩応化の伝説〉のもととなったお堂で、言うならば〈普陀開山の地〉ということになる。
「不肯去」とは「行こうとしない」という意味だそうで、これを機会に普陀山に仏教が伝わり、多くの寺院仏閣が建てられたという。そう広くはない小さな堂内には、朱ろうそくとお線香の煙がたちこめ、お詣りの人々に押されてゆっくり拝むことすらできない始末である。私の一番こわいのはあの長いお線香、中国の人達はその一束に火を点けて肩の高さ位に持ち歩く。何かのはずみに触れようものなら、化学繊維の上着は思わぬところに穴があいてしまうのだ。灯明堂の脇には直径四0糎、高さ五0糎ほどの缶が二つ四つ置かれ、水を入れた缶の中には赤い蝋燭がうつ向けて突っ込まれてある。お詣り客が多いために燃え尽きない中に、新しい蝋燭と取り替えられてしまうのである。缶の中の蝋燭はどれも三0糎はありそうで、新品同様といってよいもの―。日本のお寺ではちょっとお目にかかれない光景であった。
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普陀三大寺院
(1)慧済禅寺

〈慧済禅寺〉。島の北側の最高峰、〈仏頂山〉山頂の東中国海を俯瞰できる絶景の地にある寺で、もとは小さな石亭があっただけだが、清の乾隆五八年と光緒三三年の二回に亙っての大規模な増築によって、〈普済寺〉や〈法雨禅寺〉と共に普陀三大寺院のひとつに数えられるようになった寺である。バスは土産物屋が並んでいる一角に着く。
〈海天仏国〉と彫られた牌楼をくぐり、山の緑ゆたかな小路を辿る。寺は山頂にあるだけに周囲には樹木が繁っていて、みるからに古刹の風情を感じる。途中には石刻文字が多く、桂泉先生に何や彼やと教わることが多かった。お話を聞くかたわらを五体投地礼の女人が過ぎる。チベット仏教の寺なら見馴れた景であるが、この辺りでの『歩き坐禅行(五体投地)』は珍しいと思った、が、ふとこの島が「観世音菩薩の聖地」の思いに至り、チべットの観音信仰を思い合わせて「なる程宜なるかな」と納得したのだった。
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仏頂山天王殿 |
慧済禅寺 |
海天仏国牌門 |
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(2)法雨禅寺
〈法雨禅寺〉。今回の〈普陀山巡礼〉でいちばん印象深かった伽藍といえば、この〈天華法雨の寺〉ということになろうか、立派な牌楼を構えた石橋を渡り、山門に近づく磴の両側には年代を経た樟や樫の老樹が奔放に枝葉を広げ、静かで優しい緑蔭を形づくっていて、これから訪ねようとする聖域への心地よい誘いとなっている。やがて、樟の梢ごしに瑠璃瓦をのせた紅殻色の、どっしりと落ち着いた山門、それでいてとても洒落た感じの山門である。くぐり口の上部には黒地に金茶色で『天華法雨』の刻字、それがまた紅殻色の壁とよくマッチしていて何とも言えぬ風情を醸している。梢を渡る風は紅殻色の山門のカンバスに、折々の樹々の様相を影絵として演出していく。誰が企らんで仕掛けた構図でもなく、唯悠久の自然のままの佇まいに、私はいつか躰の奥までも浄化されてゆくのを感じた。正に『法雨』を頂いたといってよい。
山門すぐの左手には〈九龍壁〉。寺内に九龍壁のある寺も珍しいが、明代の皇宮を移築したものと陳さんは言う。晋陀三大寺院に数えられるだけであって、寺域は九二五0平方米という大規模な寺で、槙や樟・銀杏などの古木も多く、三抱えもあろうかと思われる椿の老木に、山椿らしい小ぶりの花が下向きに紅を点している。法要があると見えて、黒衣に赤い袈裟をつけた僧の列が私たちの前を過ぎてゆく。みどり豊かな境内には、今私たち一行の姿しか見えないが、清明の頃には沢山の参詣人で賑わうことだろう。重厚な建造物を誇るこの寺は、明大の万暦八年に創建されたが火災にあい、その後清代に康熙三八年(一六九九年)に修復され、『天華法雨』の扁額を賜ってより〈法雨禅寺〉とよばれるようになったとか。とにかく『懐かしさ』の湧く寺であった。
法雨寺境内
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(3)普済寺
〈普済禅寺〉普陀三大寺院のひとつである。三大寺院の中では最も大きく、総面積一万四千平方*の敷地をもち、伽藍は北宋期の元豊三年(一0八0年)の創建で、現在の堂宇は清の雍正九年(一七三一年)に建造されて、天王殿・円通宝殿・蔵経楼も立派であるが、先ず何よりもの驚きは、碑亭をもつ蓮華池の広さと、深い木立を抱く大寺の風格に声を呑むばかり。この大寺は普陀山霊鷲峯の麓にあり、〈法雨禅寺〉は普陀山光熙峰の山麓。〈普済禅寺〉は仏頂山山頂というように、低い島山を背景にして寺廟が建てられている。最盛期には寺廟が三百あまり、三千人を越える僧侶がいたというから、この狭いSHIMAいっぱいに仏教(観音信仰)が繰り広げられたのであろう。
休憩のために立ち寄った息来小荘賓館で、今朝ホバ―クラフトで一緒だった韓国の巡礼僧の人々にはじめて出会った。彼の僧尼たちは一体どの辺りを巡拝していたのであろう。ついぞ姿を見なかったが―
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