五台山への道
<忻州>。この聞きなれない駅名は、一行の誰にとっても恐らく忘れることのできない思い出となるに違いない。雨の降りしきる夜明け前のこの駅に降リ立って、私達は泣きたくなるような経験をしたからだ。
忻州は、山西省の省都<太原市>の北、約70粁に位置する都市で、私達は京原線の寝台特急で此の町に着いたのだった。五台山へはこの町からの行程が最も便利だというので、太原旅行社から鄭晋生さんと鄭洪蘭さんがバスで迎えに釆てくださっていた。
山西省という地は前にも、二回位訪れているので珍しくはないが、<太行山>という山の西に広がる、しかも黄河の中流地域に位置する黄土高原の風土で、どの地域も海抜千米前後のために冬の寒さは厳しいが夏の酷暑はないという。大同市もそうであったが、石炭の塊を積んだトラックが行き交う。やはり大同市と同じくこの辺りは”石炭の町・鉄の町”といわれ、良質の石炭が産出されるので、近年重工業の町”太原”へ向かう車が多くなったと洪蘭さんは言う。
洪蘭さんの自慢は山西省の酢や汾酒に及び、これらの品は海外へどんどん輸出されているとのこと。滞在中に”汾酒”なる銘酒を味わってみたいような気が起こり、黙って自分を戒める。果物も梨・棗・葡萄・胡挑と種頬が豊富で、道路の両側に広がる農産物の状態を見ても、何となく豊饒の秋が感じられるのだった。胡麻・麻・粟や稗・唐黍畑を截ってバスは突っ走り、麓の<五台県城>という村から険しい霧深い山路に入った。霊山に相応しい霧相に声を呑み込む。道端には高山性の植物が冴えた色の花をつけ、まるで信州の高原地帯に深入ってゆく錯覚を覚える。土砂崩れした石塊を避けて、ドライバーの鄭さんの見事なハンドル捌き、ときどき鵲がとびたちその白と黒の美しいコントラストの翼を披露してくれる。忻州から約170粁のバスツアーも結構心躍るものがあり楽しい。
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| 忻州市城門 | 霊山深霧 | 台懐鎮村 |
五台山→http://www.china-world.info/china04e.htm
今回訪ねる五台山は、四聖地の一つで太原市から東北へ約250粁の山西省五台県にある。海抜三千米の五つの高峰があり、五台(北台・東台・西台・南台・中台)と呼ばれる峰に囲まれた小さな谷間の村に、現在120余の大小さまざまな寺院がある。
寺々の起源はっきりしないが、五世紀以来時代ごとに寺院が建てられ、日本・印度・ネパール・インドネシアなどの国々までも名の聞こえた仏教の総本山であるという。十五世紀の明代にチぺット仏教の黄教が入って以来、寺院形式や内谷など色々の面で多種多様の相が現れ、各地の信徒たちが遠いことをものともせず参拝に訪れる。
ずいぶん前のことであるが、比叡山の千日同峯の僧が五台山回峯を試みたテレビ放映を見たことがあり、その時から五台山巡礼を心に描いてきた私であった。五台山中には(南禅寺・佛光寺・顕通寺)など重要文化財級の名刹があり、かつの日本人留学僧の足跡なども伝えられている。五台山ガイドの李さんは仲々の好青年で、唾をとばし乍も五台山の魅力をまくしたてる。(清水河)という中国では珍しい清流に沿ってバスの道路があり、終点は<台懐鎮>という村で此処が五台山巡礼の中心地である,(台懐鎮)は緑の山に囲まれた海抜1600米の高原の村で、私達一行が到着した日は霧雨けぶる薄墨いろの景の中に、コスモスの色鮮やかな葩がふるえていた。今は雨期のようで一週間程雨が続いているとの話で、滞在中はうすら寒い日和であった。因みに、中国仏教の四大霊山を紹介しておくことにする。浙江省の普陀山(観音菩薩=救いの神)安徽省の九華山(地蔵菩薩=教化の神)、四川省の峨眉山 (普賢菩薩=理智・慈悲の神)に加えて、今私達が訪れている山西省の五台山(文殊菩薩=知恵の神)が、中国仏教の聖地・名山として古い歴史をもっている。
五台山の寺々
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| 龍泉寺 | 南山寺 | 普化寺 |
巡拝の先ず初めは(龍泉寺)。宋の時代に創建されたこの寺は、台懐鎮の村より南西へ約20粁の九龍崗景区にある。バスを降りると目の前に百八段、これが身を浄めるための第一の関門かと見上げれば、その先に見事な象牙色の石彫りの牌坊が厳かに峙っている。石段下から仰ぐだけでも見事という他は言葉が見つからない山門の石彫、フゥフゥ息をきらしながら、その前に立って技を極め尽くしたとも云える、重厚でしかも荘厳華麗な山門建造物を見て、巡拝初めの寺に相応しい龍泉寺の佇まいを、誰よりも喜んだのは私ではなかったか―。
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| 山門 | 普済和尚塔 | 牌坊 |
驚きはそれに留まらなかった。ご自身でそこに佇たれて唖然としていただくより表現のしようのない龍泉寺牌坊、その精緻な彫刻の奥に、そう大きくはない金の仏像が、ちんまりと鎮坐しておられた。境内に湧く泉から龍泉寺と名づけられたと聞くが、参道の脇を山からの清水が清冽なしぶきを上げて奔り去るのも、この国では珍しい一景であった。東院・中院・西院の三院から成るこの寺には、文殊さまと弥勒さまが祀られていて、宋の時代の創建であるという。三院のややに落ち着いた色調も好ましかったが、般若心経の刻まれた普済和尚塔(六角形の墓塔)の高さと、その全面の石彫にも、私たちは度肝を抜かれて佇ち尽くした。
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仏教故事石彫図 |
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南山寺108磴 |
バスを下りると、馬子たちが、一斉に近づいて来て乗馬するように勧める。南山寺まではなだらかであるが、相当長い坂が続き、その両斜面には八千草が咲き乱れる。特に吾亦紅の群生にはおどろいた。野趣ゆたかな吾亦紅が丈高くなだれ咲く景は、到底日本では見ることの叶わぬもの。馬をつかうように言ってくれるが、それでは仏さまに申し訳が立たない、と思い杖をついてゆっくりゆっくり登る。
此処にも長い長い石段が待っていた。優しい李晋宏さんは、私の腕をとって「スロースロー」と言っていい乍も、私を引っぱり上げてくださる。とうとう百八段の半ばで救心のお世話になる始末、なんと値打ちのある磴であったことか。しまいには磴恐怖症気味の私であった。
南山寺山内にも石彫物が数多く見られ、特に仏教故事を描いた石彫壁画は有名とのことであった。 何はともあれ、南山寺では吾亦紅と磴の苦しさが、いちばん印象に残っている。
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普化寺院主 釋妙生さま |
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普化寺院主さまと一行 |
今回の巡礼でこの寺は、私にとって忘れることの出来ない一寺となった。磴に疲れ果てた私であったが、此処で思いがけなく、み仏のご意思をいただき、生き仏とも云える普化寺院主さまの仏縁を頂戴したからである。 普化寺は後ろに山を控えた広い伽藍をもつお寺で、どっしりとしたお堂がゆるやかな反りを空にひろげ、山内の緑も殊の他ゆたかで、何となく落ち若いた雰囲気をもっていた。
写経一巻を納めて立ち去ろうとしたときに、院主さまが出て来られてお話くださるというので、私たち一行は晋宏青年に従って踵を返した。院主さまは一行に普化寺参拝のバッジをくださり、記念撮影にも快く一緒いただいた後、私たちを迎賓室に招じ入れられた。迎賓室というよりは、お堂といった感じの広い部屋には、中国各地や日本の僧侶などの参拝記念の幡や書が、壁全面に貼りめぐらされていて、普化寺の仏教活動の一端を窺い知ることができた。お茶を頂き姫りんご(海棠の実)を馳走される。
院主さまは終始にこにこと笑みが絶えぬ方で、参拝の記念に『五台山佛光』とさらさら書かれ、私にくださったのである。『五台山佛光』なんと素晴らしい戴き物であることか、私は生き仏さまから、五台山つまり文殊菩薩さまの御光を戴いたことになる。それはみ仏さまの思し召しに他ならないと私は確信している。そして感謝、感激の帰路であった。一行の誰もが、この思いがけない一会を有り難く光栄に思ったのは申すまでもない。 因みに普化寺の院主(和尚)さまは、御名前を"釋妙生"と云われ三十一歳、東北部のご出身である。
五台山各寺→http://www.kairyu.com/te/23.html
天龍山→http://www.china-world.info/china04a.htm
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南台頂 |
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南台頂への道 |
五台山には五つの峯があることは前に記したが、私たちが実際に訪ねることが出来たのは<南台頂>と呼ばれる南の峯である。山頂には普賢菩薩の舎利塔のある改修中の一寺があるのみで、山頂周辺は霧が音をたてて流れる広大な花野であり牧野であった。当初この南台頂は訪ねる予定にはなかったので、突然のスケジュール変更ながら、私たちは最高に喜んだ。歳時記の中に活字として集録されている「花野」は、何の説明を要することもなく、視界全円に展けていて、誰もが「花野」という季語を実感し納得することができたのであ。松虫草、とりかぶと、秋明菊、朝霧草、藤袴、田村草など山頂の風に揉まれて短いが、冷気のためにさすが色深く咲いている,時々、村上さんは私たちにこういううれしいブレゼントをくださる。
今度の五台山の巡礼では前に述べた寺院の他に、<羅?寺><顕通寺><塔印寺><殊像寺><金閣寺><竹林寺><仏光寺>を巡らせてもらったが、実は私にはこの他にもう一ヶ寺、どうしても訪ねたい寺院があった。それは<碧山寺>。北魏時代の創建といわれるが、今の建物は明代のもので、上海の玉仏寺の(玉仏)と同じものが、ビルマから贈られて安置されているとか。少し遠いのだが、是非と思っていたところ、中国仏教会の研修会のため、各地からの僧侶でいっぱいとのことで諦めざるを得なかったのである。
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顕通寺 |
塔印寺 |
羅kou寺 |
南台頂からの帰途、清涼景区にある<金閣寺>を経て、私たちのバスは竹林寺村に人り<竹林寺>を訪ねる。 前方に後方になだらかな丘陵を望む<竹林寺>、その佇まいは今までの何れの寺院よりも鄙びていて、どこよりも私はこの寺の雰囲気が気に入った。竹林寺村の一角に入ったとき、山を借景にして立っていた小さくて物寂びた感じの塔は、日干し煉瓦を積んだ寺塀の外側にあり、塔裾は秋草がなだれ咲きコスモスが華やかさを添えている。バスの止まった音に、住職さんがにこにこと両手を広げるようにして迎えに出て来られた。
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竹林寺 |
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竹林寺村 |
引き続いて修行の僧と思われる方々が二名、どの僧も屈託のないとてもいい顔をしていらっしゃる,寺内の畠にはじやがいもキャべツが植えられて、ゆたかに育っているのを見ていると、この寺を護り修業している僧三名の食糧で、すべて自給自足の暮らしであるとのことだった。竹林寺村の聚落から此処まで歩いての巡拝ならば、この長い山坂道は到底私の健康状態では、叶えられるべくもない行程であり、比叡山の回峯僧が成し得る行ではなかったろうか。お住職の釋寶聚さまは、一行を寺坊に招じてくださり、滋味のある表情で遠路の巡拝をねぎらわれ、お茶と姫りんごを勧められる。自給自足の僧侶から私たちがお布施を受けるなど、本末転倒のことと一同は大そう恐縮したことだった。慈覚大師や圓仁大師ゆかりの寺<竹林寺>の住職さまは、野口節子さんのみならず、私にも亡き父を彷彿とさせる忘れ難い寺であった。お布施を差し上げて立ち去るとき、一抹の哀しさが身の内をよぎった。父親を想わせる此の人にもう再びお遇いすることのない、淋しさと哀しさがいちどきにこみ上げてきたのである。そしてそれは又、辺境ながらこんな素敵な佇まいの竹林寺で、合掌し納経させて戴くたみ仏さまへの思いでもあった。振り返り振り返り手を振る私たちを、門外に出て見送ってくださった坊様たち、住職さまは到頭バスまで一緒に歩かれて、別れを惜しんで手を振ってくださった。塔が小さくなり住職さまの手を振られるお姿が小さくなるまで、私たちも手を振って名残りを惜しんだ。 ホテルへ戻る途中も、みんなはそれぞれの思いを温めているらしく、その満ち足りた表情を坦間見て、私は一人ひそかに救われた思いに居た。
感動の五台山巡拝を了えていよいよ下山の日。往きに登ってきた険しい山道を、麓の五台県城まで下るのである。私たちが拠点とした(台懐鎮)という村は、五台山の中央部にあるために、この地域から広い範囲に点在している各寺院へ参観に通ったわけであるが、参観可能なものは122の寺院のうち20程で、現在修復工事中の寺も散見された。ドライバーの鄭さんはスビードを上げて走る。あの寺、この寺でのさまざまなことを追想しながら、私は或る一事に賭けていた。忻州を経て太原まで突っ走り、今日中に<双塔寺>と<崇善寺>を訪ねるという洪蘭さんの日程を耳にした瞬間から、私の不安は膨らみ始めていたが、敢えて私は沈黙を守っていた。どんなに騒ぎ、どんなにあがいたところで、私にお与えがなければ希いは達成されない。み仏に帰依する巡拝に、み仏のお心が戴けなぬならこれは何をか言わむ・・・万事休すではないか。と私は考え、己れに賭けたのである。
村上さんという人は、いつの旅のときもそうであるが、さりげなくそうっと、しかも丁寧にみんなの動静に目を配り、的確な判断による措置を取られる。そのブロの眼に私はいつも敬服して来た。今次も例外ではなかったようだ。<豆村>という標識が現れた時、私は祈りたい気持ちになっていた。<豆村>を素通りするか否かの一点に、私自身の人間が問われる思いにいたからである。
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佛光寺 |
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祖師塔 |
どんな顔つきだったのか自分ではわからなかったが、村上さんはドライバーさんと中国語で話し始め、洪蘭さんと陸さんにも話は広がっていった。やがて<佛光寺>という矢印が見え、バスは何事もなかったかのように右折して、黄土のぬかるむ道を仏光寺を目ざして走り続けた。私は「助かった―」と先ず思った。そして「み仏さま有り難う、村上さん有り難う。」と何回も呟いた。”助かった”
には、私の深い思いが隠されている。
<佛光寺>。往きに拝観の果たせなかったお寺の一つである。この寺は国の重要文化財の指定をうけた寺で、今は無住寺であるが、寺というよりは国宝級の文物研究所<博物館的建造物>になっている。そのため僧侶はいないで、仏教関係の研究員が私たちに親切に説明をしてくださった。『南無阿弥陀佛』の輪袈裟をかけた私に、研究員の方は微に入り細に入り、塑像は唐代のもの、壁画は唐、宋、明代のものがあるなど、ていねいに教えてくださる。雨漏りのために剥落のはげしい壁画を拝見して、何とかならないのかしらともどかしい思いがした。
古刹というにふさわしい広い山内には、唐代の松が悠久の翠を広げているのには驚いた。唐代の建造といわれる中央の東大殿、金代の創建の文殊殿、納骨塔・祖師堂など、三方を山に囲まれ静寂そのものという<佛光真容禅寺>であった。東大殿への磴は殊の他傾斜がきびしく、60度ぐらいの鋭角であったが、仏光寺を巡拝できた嬉しさに、私は心身ともに弾んでいた。あとは、<玄中寺>巡礼と<天龍山石窟>めぐりが残るだけという思いが、躬を軽くさせていたようだ。
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石炭と鉄の町と云われるだけあって、<太原>の市街地は何となく空気が汚れ、街路樹の緑も生気を失っているようだ,開放後は豊富な地下資源を活かした重工業の町として発展しているというが、町全体がせかせかして落ち着きがないように思われる。待望の<玄中寺>行。バスを降りると雨は霧雨に変わり、傘もいらない状況である。何よりも私たちは先ずそれを喜んだ。<玄中寺>山門には『永寧禅寺・浄土古刹玄中寺』とある。
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わが家の宗旨が浄土宗とあって、かねてからどうしても一回はお詣りしたいと念願していた。思うところあって今回の巡礼に加えさせて戴いたが、菩提寺の善導寺の住職さんもまだ訪れて
は居ず、あちこちの住職さんにお尋ねしても皆目わからない状態で、旅行社から戴いた”中国”を参考に読んだのみで、勉強不足を恥じながら山門をくぐった私である。山門に行きつくまでに私たちのバスは、幾つかの峠を越え雨の山路を幾曲がりもしながら登って来た。
ここはへ<太原>の南西にある交城県から、山に北西に十粁の石壁山中にある名刹で、その伽藍は海抜九百米余の連山の山間にある。どちらを望んでも山また山が折り重なって見える。一歩踏み入ってまっ先にびっくりしたのは、山椒の古木の多いことと、その実が雨あがりの山内に香りを放っていたこと。堂の縁には真っ赤な山椒の実が干し広げられている。5〜6mもある太い幹の山椒の木に異様を感じた一行であった。
資料には、北魏の延興二年に曇鸞上人が建立し、その法灯は道綽と善導が受け継ぎ、二人はこの玄中寺で修行したので、浄土宗徒にとっては『三祖の仏蹟』として、一生に一度は参詣すべき聖地であると記されている。日本の浄土宗の開祖の法然上人が、師として仰いだ善導大師の修行した地であるため、日本の浄土宗徒は、玄中寺を『祖庭』として尊んでいるとも記す。家の菩提寺の善導寺には、その名の通り『善導大師像』が寺宝になっていると聞いたが、先年の火事でどうなったことか。因みに善導大師は唐代初期の人で、その教義は法然上人によって伝えられ、鎌倉庶民仏教としての浄土宗が生まれたとある。
山襞には霧が立ちのぼり、境内には天王殿、大雄宝殿、七仏殿、千仏閣などの仏殿がならび、仏像や石碑がその歴史を伝えている。七仏殿には印相の異なる七体の阿弥陀像が安置されていた。私たちは、その前で般若心経をたてまつり、それぞれ写経一巻ずつを納めさせて戴いた。大雄宝殿の左側の三祖殿(祖師堂)には、日本から贈られた。曇鸞、道、善導三師の画像が祀られているということだが、拝観することができず残念であった。ややぬかるみ気味の境内は、どこを歩いても山椒の実が真っ赤に実り、懐かしい匂いを漂わせているこの国でこの匂いを満喫できるとは思いもよらぬことだった。山萩が細かい紅をこぼし、黄釣船が雨粒を宿して揺れる寺領の山肌、きっと曇鸞大師や善導大師の頃からの変わわぬ大自然の姿であろうと思われた。先年訪れた<大足石窟>での作”佛らに山河のみどり永劫に”が想い起こされた。忙しく慌しい現世を遠く離れた「西方聖境」の浄土が、確かにこの山の中に今も脈々と息づいているかに思われるのだった。
七体の阿弥陀さまのちょうど中央、お足許にちんまりと、やや右の肩をおとされて左前方を視つめていらっしゃる<節子観音像>、右手に長く数珠を垂らされている。ありし日の儘の先生が「あなた、とうとうあなたの思い通りに私を中国まで連れて来てしまったわネ・・」と、笑っていらっしゃるかのよう。「先生、そちらへは少し先に行くか、少し後になるかだけのこと、どうせ行き先は一緒なんですから」と私は呟いて再び掌を合わせた。
わが家の宗祖の廟を訪ね、お釈迦さま・阿弥陀さま・そして宗祖のみ仏さまに、ただ無心に掌を合わせることに、私はすっかり充足していた。また、為すべきことを為した思いに、心にのこることはもう何もなかった。十数回の石窟巡礼の中でもこの玄中寺巡拝は、私の生きてきた約七十年の日月を通しての、大切な意味をもった重い合掌の一駒となった。もうふたたびは訪れることのない山中の伽藍と、それらをとり巻く大自然のふところの深さに、今の世にこんなに平和で、こんなに心ゆたかに刻を過ごすことのできる不思議を感じた。まこと<浄土祖庭>である。禅宗が真言宗・浄土真宗の人も宗旨に関わらず、みんな救われたような面差しで車中の人となる。山峡には往きと同じように、心鎮めの細雨が降りはじめていた。
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この石窟の名を知ったのはつい先頃のことである。手許の旅行ガイドを開いても記載がないので、村上さんに調べて戴いたところ行けそうと言う。大原市から南西40粁、海抜約1700米の天龍山の中腹にある東西二つの峰に、東魏時代に第二窟と第三窟、北斉時代に第一と第十窟、隋代に規模が大きくなって第八窟と第十六窟が造営され、それ以外の石窟は唐代のもの”と記されている。やっと見つけたガイドブックには東西両峰の中程にある第九窟には、上段に高さ八米の大仏、下段には中央の観音像をはさんで、文殊菩薩薩と普賢菩薩の二尊像が立つ。これは唐代末期の佳作と云われている"とあった。山西省国際旅行社の韓副社長は、天龍山石窟の他に山西省には(龍山石窟)もあるから、また是非訪ねて欲しいと言われたが、その龍山石窟とやらについても何の資料もないのが残念だった。
<天龍山>へは山坂が続くので、この雨天の中ではバスが運行できるかどうかが案じられた。
登山口の関門で係の人と洪蘭さんの交渉が続けられた結果、やっとゲートが開かれた。万歳!万歳!嬉しさに心が高鳴る。ぬかるみの山坂みちは当然のことながら、霧が深くて前方も後方も右も左も視界が効かない。ドライバーさんの緊張もさることながら、最前列に坐っている村上さんと私も固唾をのんで身を固くしている。バシャッと音がして雉がとび立つ。そう大きくはなかったから若雉ではなかったか。野兎が走り去る。兎の影はちょくちょく現れた。誰も登ってくることのない天龍山は、動物たちにとって禁猟区同然の平和な生息地である。彼らは雨中を登って来た闖入者たちに、その平和を破られてびっくりした様子だった。バスを山頂に停めて一行は、霧雨けぶる山路を中腹まで下山する。身一つの身軽な状態で石段を下りはじめる。
窟守の老人が私たちを出迎えに来てくださり、ひょいひょいと猿(ましら)のように山坂を下ってゆかれるのは驚いた。60歳ぐらいかと思ったが、80歳を超えているとのことだった。細い山路には野菊や小粒の萩が雨滴を溜めていて、ゆっくりと下りてゆく。やがて目の前に高い切り岸が現れる。窟の近いことがそれとなく察しられ「到着です。」という大きな声。かぼちゃ棚をくぐって入った正面には<白龍洞>という文字板がかかり、外から見ると何やらおどろおどろした闇。畳一枚ぐらいの入口の奥処には、大小さまざまな石像が赤い衣をつけて並んでいる。お地蔵さまのようでもないその闇に一人佇っていると、四方から霊気が迫ってきて不気味で怖くなってきた。こんな経験は初めてである。
みんなは窟脇の(龍潭澤)に行って霊水を飲んでいた。無病息災・不老長寿の銘水とのこと。これ以上長生きもしたくないが、さりとて自分を殺めることもできないから、専ら無病息災を願っての一掬というのが一行の言。こんなに澄んだ水があるからには、窟守さんも生活用水には困らないし、その長寿ぶりも肯けるのだった。かぼちゃ棚の脇の軒端には、葛で編んだ籠いっぱいにじゃがいも、私たちの頭よりも大きい南瓜がごろごろ並べられていて、窟守夫妻のくらしぶりが想像された。唐を登りきると(漫山閣)。その説明板から、この石窟がガイドブックにあった東西両峰の中ほどの第九の東西両峰の中ほどの第九窟に当たるらしいことがわかった。みんなは上窟の高さ八米の大仏坐像への階を登る。ふっと敦煌の<莫高窟>の端正な大仏さまが思い出された。下段の窟には中央に"十一面観音"そして左手に"文殊さま"右手横には”普賢さま”の象に乗られた姿があった。
窟守さんは撮りなさいと言ってくれたが、像が高くてうまくカメラに納まらないのが残念だった。納経すると「古松抱柏」という揮毫をくださった。この窟への途中に松の古木に柏の木が宿った由緒ある大木のそばを通ったが、それがどうやら揮毫の言葉となったようである。第九窟へ(漫山閣)以外の石窟にも心が残ったが、公開されている様子がないので帰途に着く<龍川石窟>もきっと此の辺りの山巓近くにあるのではなかろうか。窟守さんは、軽業師のように山坂を登り下りされ、頂上のバスまで私たちを送ってくださる。近い将来にもう一度訪ねてみたい思いの山路の石窟であった。
つじ 加代子(記)