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峨眉山

峨眉山への道    
                           はじめに                           つじ加代子
四川省成都と云えばすぐ浮かび上がる人物がある。精悍な長身の青年"張謡さん"である。彼とは1990年(平成2年)の三峡・四川石窟巡礼の旅で初めて出会った。成都北駅から乗車した成昆線の列車の中で、彼が熱っぽく語った四川省の魅力については此処では述べないが、そのインパクトのある語りに触発されて、その後いくたびか彼とも逢い、彼の推奨するチぺットや青海省へも足を運んで来た。楽山大仏を訪ねるべく<峨眉站>に下りたったのは18名、北京新華旅行社副社長の葛華氏も一緒だった。木の芽靄がたちこめて見るすべもない峨眉の山巓に目をやり、いつの日か普賢菩薩の聖地である(峨眉山万年寺)を巡礼したいと心に誓った。この年の石窟巡礼は、重慶奥地の(大足石窟)と(三峡下り)の揚子江号船上での坂口さんの喜寿の祝宴が、忘れられない思い出となって何時までも語りつがれている。あれから十年、成昆線を使うまでもなく高速道路が伸びて、短時間で簡単に移動できるようになったとのことで、かねてより念願の峨眉山巡礼と四川省の石窟めぐりを思いたったわけである"村上さんから張謡さんへと調査依頼のすすむ中で、今回は成都を中心に南は峨眉山市、北は綿陽市までとし、北の広元市や南東部の大足は次回ということになった。四川省の略称は「川」または「蜀」で昔から「天府の国」といわれる物産の豊かな地、その豊かな風土をしっかり満喫して頂きたいと考えたが、皆さまは初めての大地・うか:文殊菩薩聖地(五台山)や観音菩薩聖地(普陀山)は共に高地ではなく歩行に不安はなかったが、峨眉山頂は高嶺とあって終始みなさまにご心配をおかけしたことをお詫びし、喬夫や喬子の手配をしてくださった村上さんに厚くお礼を申し上げたい。いつの旅もハプニングの一つ二つは付き物、よい思い出と消化してまた次の巡礼にご一緒いただきたいと考えている。                                                 

峨眉山マップ
思いがけないハプニングに心身共に疲れ果て、よく眠れずの夜明けを迎えた。中国仏教の四大名山のひとつ〈峨眉山〉に仏光を仰ぐというのに、どうも気分がすっきりしないのだ。聖地を踏む日は気分も爽快で足どりも軽いのだが、腰も痛いし足も重たく機嫌のよくない顔をしている。出がけに妹に叱られて気をとり直したが、心の底には不安がとぐろをまいている。

四川省に名山2つ、成都郊外の『青城天下幽』と呼ばれる道教の青城山と、『峨眉天下秀』として知られる峨眉山でその主峰は標高3099m。頂上は亜寒帯、中腹は温帯、裾野は亜熱帯的で温度差は15℃もあるという。ブロッケン現象が見られるという金頂の普光殿周辺は、聖地というよりは観光地さながらの趣で少々がっかり。ここまでの途中の風景やロープウェイから見た霧の蕭々と流れゆく嶺々の方がずっと聖山めいていた。千仏頂より22m高い万仏頂を究めようとのことで、出来たばかりのモノレールに乗って出発する。                                                                                                                私に付いてくださる陸さんを残して、健脚グループは山坂道をゆっくりゆっくり登って行った。梢を渡る風が日の斑を揺らせるだけの閑かな一刻、木立の奥へ消えてゆく一条の磴の半ばに坐つて、何をするでもなく考えるでもなく居る2人に、赤松林の間から黒豚が2頭出現。びっくりしたこと慌てたこと、山の管林人さんの放し飼いの黒豚ということで、つやつやとした黒い毛が印象的だった。珍客の黒豚に驚いている中に,万仏頂を目指した一行が帰って来た。10名の顔は各々かがやいていて口々にその素晴らしさを言う。峨眉の主峰で食べた手作りの握り飯は格別だったらしい。ガイドブックに記載された峨眉の主峰は3077mと3099mの2通りがあり、真偽いずれかと村上さんに質していた彼らであるが、千仏頂と万仏頂を自分の足で踏んでみて、きっと納得したことだろう"百聞一見にしかず"である

                        

万仏頂3099m 千仏頂3077m 峨眉山ロープウェイ


万年寺 
万仏頂を制覇したかのような気分の誰彼の顔は明るかった。帰りは万年寺索道をつかって、標高1000mの地点にある〈万年寺〉を訪ねる。〈報国寺〉と〈万年寺〉はどうしても足を運びたい寺なのだ。霧濡れの峡谷を右に左に索道はゆったりと進んでゆく。時折濃い霧がとぎれて山家がぽつんと見えたりするが、集落のようではなくあちこちに一軒、二軒と僅かに点在している。家々の外庭は広く農作物なのか薬草なのかは判然としないが、兎に角筵の上に干し広げているのが見える。

峨眉山は薬草の宝庫と云われ、成都の同仁堂の薬膳料理や漢方薬は夙に有名であるから、薬草の類いではないかと思われた。索道駅からは舁夫さんのお世話になる。米1俵の重さを担いで貰うには気の毒な程の細身の青年が2名、ひょいと肩に持ち上げて猿のように身軽く移動していくのだ。参道の両側は薬草を積んだ露店がずっと並んでいる。球根状、乾燥した葉っぱや茎、粒状のものなど多種多様である。大きな霊芝を見つけてびっくり、欲しい物があるが担がれていて皆んなから離れているので自由が効かない。

〈万年寺〉に着いて先ず驚いたのは、山内に仏教寺院らしからぬドーム型の建物のあることだった。イスラムのドームのようなお堂を珍しく見つめる一行を迎えてくれたのは、白い象に乗る普賢菩薩の像であった。この菩薩像は北宋の980年に鋳造されたもので高さが7.3mもあり、私たちは白象の脚の部分や尻尾の部分を仰いでいる感じであった。金頂の山上ではなく此の寺の像の前に佇って、私は自分の守り本尊である普賢菩薩の聖地を実感した思いにいた。その時ふと頭をよぎったのは、高野山の霊宝館で観た普賢菩薩像と孔雀明王像、そして廿粛省西峰市の北石窟寺の象に乗った菩薩の像である。何れの菩薩像も面差しが優しくて静やかなもので、最晩年の森白象大僧正が彷彿と浮かんでくるのだった。万年寺からの帰りの駕は飛ぶように速く瞬く間に索道駅に到着。もし許されるならば、山間の農家に2、3日泊めて貰って、薬採りの様子やその暮らしぶりに触れてみたい思いに駆られていた。余談ながら駕さんへの支払いは、たったの50元(約700円)。

                          
万年寺 薬草店


栄県大仏寺

栄県大仏寺 大仏寺 大仏寺

二仏寺

二仏寺石窟

和讃の輪の中に

<栄県大仏寺>の見事に巨大な大仏さまをその足元から仰ぎ、莫高窟の北大仏や南大仏を想い起こしている中に、健脚一行は大仏楼脇の階段を最上階までかけ登り、大仏寺山内や栄県の街を俯瞰しておりて来た。「すごい、ものすごい」の連発である。興奮さめやらぬ一行を乗せたバスは南東の自貢市へ向かってひた走る。やがて<二仏寺>の牌楼前にバスは到着。

どこからともなく鉦の音と線香のにおいが漂い、和讃を唱えているらしい声が流れてくる。お堂の中の仏像は釈迦牟尼仏と阿弥陀仏、矢張り金ぴかりんの二仏である。私たちの足は自と仏歌の聞こえる方へ向かった。中庭からお堂へ老若男女の一段が念珠をつまぐり乍ら、輪を作って仏歌を唱えている。南無阿弥陀仏の輪袈裟姿の私を見つけて、唱名の輪の中に入るように招じ人れてくれたお婆さん、日本のどこかでお会いしたような顔つきの年寄り達の温かい眼差しに甘えて、一刻私たちは唱名の輪の中に快く加わらせて頂いた。

それにしても、和讃とは不思議な歌である。辞書には「仏をほめたたえる七五調四句で作られ、ふしをつけでうたわれる」とあるが、異郷の人々のうたう和讃が言葉も意味もわからぬ私に、かつて耳にした地蔵菩薩の和讃や高野山調和讃のリズムさながらに、すうっと身の奥ふかく泌み通っていくのだった。お念仏は国を越えたものという意識を強く抱いた二仏寺であった。










聖水寺
 


聖水寺住職 釋 清徳師


千手観音
<聖水寺>は唐代(西暦860-873)に建立され、宋代には興慈禅院と呼ばれ、その後、聖水興慈聖寺と改め宋代末期に<聖水寺>の名をもった。裏山の岩から流れ出す泉水が小さな池となり、そのせせらぎの音が爽やかさをよんで、物見遊山の人々がこの地を訪れ聖水寺と呼ばれるようになったとか。

話によればこの泉は沱水へと流れ、一年中渇れることなく『霊泉』といわれるようになり、寺院の名も泉も『聖水』という名を冠し、内江市の12景勝地の1つになっている。山を背にした建造物は3つの部分から成り、1つは天上殿・大雄宝殿・蔵経楼・円覚楼から成り、2つめは説法堂・涅槃堂・薬師殿、3つめは観音殿・地蔵殿から成る。

文化大革命中、聖水寺は倒壊し殿堂内の彫像は一朝にして烏有に帰し、石刻品も見る影もなくなったが、
竣工されつつある。それ等は教義を詳説したもの、仏法を伝え広めるもの、衆生教化のもの、人々が幸せを求めて祈るように啓発するものなど、宗教的なものと世俗的なものに分れそうである。

寺内の書道作品は見切れない程の逸品揃いで、特に趙貞吉の書いた詩は内江市の2大名品であると方丈さま(釋清徳師)は言う。円覚楼の裏には聖水岩があり至る所に石刻が施されている。私たちはその薄暗い岩間をあちこちと回り、左側の岩の上にある霊湫亭を遠望する。寺領は全く文物の宝庫と云うにふさわしい。方丈さまは解放していない部分の重要建築物まで、先頭に立って案内してくださり撮影まで許してもらったが、あまりの文物の豊富さにフィルムが尽きるという始末。私の最も驚いた仏像は、観音殿の石刻千手観音坐像で高さ8m。東を向きその健康的で豪放なタッチの彫りに対して、お顔の豊満な美しさに声を呑む。一体の観音菩薩像の中に、男性と女性を見る思いがするのだった。典型的な唐代の作品で、聖水寺石刻彫像の代表作ということだった。因みに、日本人では私たちが初めての参詣客であると云う。



聖水寺伽藍

聖水寺の仏









夾江千仏巌・蜀の桟道址
 

大仏への山路

楽山大仏


仏みち

刻字壁

四川省に現存の石窟・石像群の数ぱ35、中国省別順位では第2位。四川省は往古「巴蜀」と呼ばれ、「巴」は今の重慶、「蜀」は成都を中心とする中国の奥地であった。李白が”ああ危きかな、高きかな。蜀道の難きは青天に上るより難し”と詩った如く、この地は千山万岳が重畳られていた程の行路難の地であった。"四川の太陽しその断崖には道が無く、いわゆる「蜀の桟道」が架けを見て吠える”とい云うが、昨日まで3日連続の雨とあって天府の国の緑は殊の他美しい。

眉山賓館を出たバスは成昆線に沿った公路を一路南下し50分程で夾江県に入る。途中道路脇で木の枝に吊り下げた掌状の物と、ひらひら手を振る村人の姿にバスは小休止。近づくとそれは大きな大きな茸、食指の動く誰彼の表情に「毒茸との判別が困難」との青木秘書長の檄がとぶ。紙の産地とぃぅ夾江の町並みをぬけて、やがてバスは夾江千仏巌)と太彫りの牌門前に到着。これょり流れに沿って樹々の戦ぐ下蔭の小径が続く。

     浄域や数珠の掌に掬む岩清水  つじ加代子
     唱名の人の輪に伍し涼しかり     〃
     仮の世を遠くに仏みち涼し      〃


いつも砂漠の1本公路や黄土台地乾燥しきった山野を駆け巡って来た身に、この四川盆地の滴るばかりの緑や草いきれは実に快く、吸う息吐く息にも自と湿りがあり寧ぎが身に添う。るんるん気分の一行の足がふと止まる。"辺りを覆うかに高い榕樹が梢を広げ、ぐるぐる巻きの気根の恨元には幡や燭が立ち並び、さながら"神宿る大樹"の相の巨木が異様な暗がりを作っている。目を凝らせば高い梢の股にちろちろ炎ゆる燭と赤衣の女人、摩摩訶不思議にも足をぶらつかせ乍ら何やら呪文のような声を降らせる。奇怪な樹上の祷り人である。高所恐怖症の私には到底できない芸であり、早々にその場を離れる。

ぽつぽつと小さい龕や祠が現れはじめ、間もなく青衣蜀江の流れが左手眼下に展ける。川風の涼しさが一行の足どりを軽くしてくれているようだ。右山肌はうんと高くまで大小さまざまな形の仏龕や仏窟、そしてそれぞれ何体ずつかのみ仏が納まっている。
仏像のみでなく道教ゆかりと考えられる像も散見できるのだった。〈大仏巌〉と云うだけあって、このよぅな仏崖に沿ってずっと奥の方まで燈が続いてるようだ。上り下りのこの磴を不調の身でどこまで迫ることができるか危惧が膨らむ。さりとてどうしても進まねば・・・と己を励ます私だった。

紅蝋燭や線香を売る人、お祈りを続ける人と様々な人の姿が見える。蔡さんの話では今日は大仏巌の縁日で、少し先の望龍坪付近に信者が集まりお祈りや仏歌(和讃)を歌うとのこと。なる程"南無阿弥陀仏と刻字された龕には、釈迦と仏弟子の塑像があった。信者は老人層がく男性は短ズボンに半袖シヤツ、女性は長いものを着ている。中には背負籠に幼児を入れた老女も混じっている。どの人も両手を合わせた姿が文句なしに美しい。意識が見える美しさではなく、その動作と人間が同化した自然体の美しさである。
       江に向く千体仏のみな涼し      嶋倉 睦代
       赤き燭ささぐ仏窟日の盛り      服部よね子
       膝ついて阿弥陀おろがむ片かげり 森井美恵子
       涼しさや和讃唱ふる声もまた    上山たか子
       み仏に滴りもらふ窟の裾       辻 多恵







つじ 加代子(記)